昭和57年02月10日 月次祭



 「月雪の、なさけ重ねて、敷き松葉」これは、どなたかの句でしょうけれども、昨日研修の時にこの句の持つ、一つの情感というか。まぁそれについての御理解を、修行生の先生方に聞いて貰ったことでございます。「月雪の、なさけ重ねて、敷き松葉」しき松葉というのは、皆さん、ご承知でしょうか。みんな知っておられますですね。丁度チャイナの方に雪やら、霜やらが降りますと苔が枯れてしまうから。
 そこに松葉をこう上に置くのですね。庭の情感というものがまた、ひとしお感じられるような。今時あぁいう情景は見ませんけれども、まっあそう致します。松葉を苔の上にこう敷くのです。もうそれこそ雪の夜に煌々と、お月さまが照っておられる。昼を欺くようなお月さまが、ね。真っ白い雪一色のなかにしかも、そこに手入れの届いたお庭の、そういう情景を詠った句だと思うですね。大変私は何か自分の感情に、ピタッと来るような句でしたから。それを色々に思うてみました。
 そして雪の心とは又は、月の心情とはと、皆さんに問いましたが。皆さんお月さまというのは、どういう風に感じられるでしょうか。月と雪とのなさけを重ねて、というのですから、その月の情け月の情というか、雪の情というのはどういう風に、まぁ頂くでしょうか。月は無情というけれどと言いますよね。お月さまは無情だと。まぁ雪は正情感とでも申しましょうか。又は冷たいものその冷たいものと、無情な月とがその行き届いた、手入れの行き届いた庭に。
 そういう一つの情景というものが、まぁこの句になっておるのだと。本当の意味は私は分かりませんけれども、私はそういう風に解したんです。私どものこの信心生活というのは、愈々人間の本当な事が分かって、本当な幸せ本当な幸福を求め願わせて貰うて。この世だけではないあの世までも、それが続けていけれるような、本当な事を身につけて行こうという風な信心だと思うんです。ご利益を受けると言う事が信心じゃないです。いわゆるご利益を受けると言う事と同時に。
 自分の心が愈々より本当な事が分かって、どういうなかにあっても、それこそ無情とも思われ冷たいとも思われるような中にあっても、その心が分からせて頂いたら。それこそお礼を申し上げずにはおれない心の状態。あの人は無情な人じゃ冷たい人じゃと、恨むとか情けながったりすると言うのではなくて、その中に神情神様の思いを分からせて貰うて、敷き松葉のいわばおかげを頂く。私は敷き松葉と言う事を、ここでは松の信心と言う事が言われますので合楽の信心は。
 合楽の持つ信心の雰囲気とこう思いました。合楽の持つ信心の雰囲気。敷き松葉である。そこに例え雪が降ろうが無情な月が、そこにあろうが。むしろその三者一体が一つになってもう何とも言いようのない。いや信心をしなければ頂けないだろう情感というものが、有難いという心が心の中にも家の中にも、うかがわれ感じられるようなおかげを頂きたいと思います。それには私どもが日頃、どういう信心を目指させて頂いたら良いか。勿論本当な事から、本当な事を求めて行く訳であります。
 大変ゴヒレイの輝いている、大きな教会の機関誌が送って参りました。そこの親先生がその表紙に、真実一途と書いておられるのが、その表紙になっておりました。真実一途と。成程一途な先生である。大変なゴヒレイを頂いておかげを受けておられる。けども私自身の事はどうだろうかと、自分で思ってみた。私も中々やっぱそう一途な所がありますけれども。私の場合には真実一路という言葉がありますけれども。
 真実一路という方が、私の信心にぴったり来ておるように思うて言うて、これも研修の時に話したことでした。一途の人私はその一途と言う事はほんとうは、どういう意味なのだろうかと。佐田先生に字引きを引いて貰いました。そしたら一つの事を思いこむ事だとありました。ですからそれぞれの一つの思い込みというものがありますが、本当な事を思いこんでおれば、まだ良いのですけれども。本当でも無い事を思いこんで、もうそれから、一歩も外へ出ようとしない人がありますね。
 思い込みが強い。信心とは矢張り一つの思い込み。神様を信じて疑わない。どんな場合であってもおかげと言えれる。どんな場合であってもそれは親愛と受けられる。そういう一つの一途さというものが、愈々本当なものになって行く事だと思うんです。ですから一路と一途というのは、少しやっぱ違います。真実一路というのは愈々、本当から本当を求め続けて行くと言う事なんです。
 合楽理念がいうなら人間の助かりの理念としては、もう最高の理念だと。しかも完ぺきの域に入ったとまで言っております。もちろんより完璧を目指して行く訳ですけれども。人間の幸せの、いうならば、根本原理というものがです。まぁ合楽理念に求めてお互い、日々の稽古をさせて頂いておる訳ですけれども。それでもね。今日本当だと思うておった事が明日より本当な事が分かったら、それにさっとこう切り替えていけれるものが、私は要ると思うのです。
 そこにはね矢張り、一途ではいけない事が分かりますよね。どこまでも真実一路を辿らせて貰うというのでなからにゃいけません。私どもが本当な事が分かる、本当な事を行じて行けれると言う事は、どう言う事かと言うとね。愈々いうならば本当なおかげが、勿論伴いましょうね。より本当な事が分かれば、より本当なおかげが伴うてくるという訳なんです。先程福岡の秋永先生が、お届けをされますのに、ここ二、三日毎日大変な事故火災、それから飛行機事故なんかがね。
 今日も何処でかあっております。三日間続きました。本当に悲惨なお話ですね。昨日の福岡東京間の、あの飛行機の事故のなかにここのご信者さんが、三人乗っておられたそうです。今日今聞いたんですけれども。高砂屋さんというまぁ、時々しか参って来ませんけど、やっぱご信者さんはご信者さんです。秋永先生のお導きで参ってきます。電話は勿論家へかかってきます。まぁお参りは時々です。
 けども今日あちらへ電話が掛ってから、こんな訳でおかげ頂いておるから、とりあえずお礼を申し上げとってくれ。また後でお礼参拝させて貰うからと言う事だったそうでしたけれども。もう話を聞いてもう本当におかげと言わずに、思わずにおれない。あの前の方が取れて、前の方達が亡くなった。そこに大体乗っとったんだそうです。それを連れの方が後ろだったから、ほんなら私も後ろさえ行こうと言うて行って、三人の方が後ろの方へ座っておったおかげで、命拾いをしたというのです。
 私どんが座っとったとこに、座っとった人はみんな亡くなっておられた。もう話を聞いただけでもうぞっとするような話なんですよね。その事を私は聞かせて頂いておりましたら、頂きます事がね。丁度、天夜の天の川とでも申しましょうかね、大変どんよりと曇った、それに天の川がこう天体ですね、が見えてそこへ西瓜が一つ、ポカンといわゆる天の川に浮いとるような感じで頂いたんです。どういう風に思われますか。
 これはもう昔頂いたお話ですけれども、福岡の教会の三代、吉木辰二郎という先生はあちらはご養子ですが、まだお若い福岡教会に見えた当時のお話です。ある秋の御大祭をお仕えになるので遅うまでかかって、神饌室で明日の朝のご大祭の神饌をなさった。盛り付けをなさってやれやれ休もうかと思うたら、裏の方から辰二郎辰二郎というて声がする。お婆さんである。
 もうとにかく肩腰が痛うてたまらんから、暫く揉んでくれとこう言われる。まぁ心の中では明日が早いのになぁと思ったけれども、言われるから揉んであげる。休まれたと思うから、じっとこう手を離しよると、またこうやって寝返りを打たれる。もうとうとう朝のご祈念まで、一睡も出来なかったというのです。そんな訳ですから、あくる日ご大祭を仕えてくる先生方が、こうずうっと並ばれまよね。その並んでおられる時に、丁度神饌の時にふわっとなさったんです。
 そしてちょっと目を覚まされたら、その自分の前を夕べ盛り付けたばかりの松茸のお供えが、自分の前をこう行っておるその松茸が、それこそばらばらと下に落ちる所を頂かれたんです。フラッと眠られたのでまぁ言うならばご神夢でしょう。はっとされた訳ですね。目をこう開けられたら、目の前をその松茸が無事にこう、前を通過してご神前にお供えが出来たというお知らせであった。そん時に先生は思われた。
 昨夜神が修行をさせておいたがと仰ったと神様が。ね。今日のこの晴れのご大祭に立派に盛り付けてあった松茸が、しかもご神前でばらばらと、崩れ落ちる様な事にもなる所をお前の、昨夜の修行によって、神が支えてやったのぞという、お知らせであったという。改めて本当にお婆さんは無情な人じゃと。あくる日明日はまたご大祭で疲れるのに、朝は、また早いのに一晩中肩を揉ませて、いうなら無情のお婆さんのようにあるけれども、そのお婆さんを通して。
 神様が明日のご大祭にお粗末ご無礼があってはならんとして、前の晩に修行をさせておいたと頂かれた時にです。無情のお婆さんじゃない。あれが神様であったと分かったというお話なんです。まぁご大祭の時に神饌物が、ばらばらとこぼれるぐらいなら、まぁ良いけれども。飛行機が墜落してからそれこそ、あっという間にお店の方三人がですよ、ね。亡くなられたと言った様な事にもなりかねない所を、神が修行させておると言う事であります。そしたらすぐ先生が、秋永先生が言われるのがですね。
 しょうだいさんち言うですかね名前は。がこの頃から僕が合楽にお参りしてお願をすると、反対のコツばっかりなるが、僕には神様のご期待があるとじゃろうち言うちから、言うたという話をするんですよ今。ね。僕が合楽に参ってお願いをするとね。右と願えば左、左と願えば右になるがひょっとすると、僕には神様の期待があるとじゃろうと、こう言う。ね。それとこれとを思い合わせてです。はぁ神様がね、こう言う様な、悲惨な事故も起こりかねない様なところをです。
 お願いの、ね。右と願ったことが左、左と願った事は右にしても、修行をさせておいた。私が頂きますそのどんよりと曇った、天の川に西瓜が浮いておるというのは、そういう事のように思う。時たまの事を天夜の星というでしょう。天夜の星くらいにしかお参りはしてこないけれども。大難がかかってきておるから、そこに修行を神様が求められた。西瓜というのは西瓜の行とこう言う。
 西瓜の行にも等しい成程無残なようであり、無情の様であるけれども右と願ったものを左、左と願ったものを右にしながら、それがいうなら三人の者が、命を頂かせて頂くための修行であったぞともし頂いて。本当に、信心が分かっておったら、もうそれこそ素晴らしい、いうならば、修行の素晴らしい。神様にお願をして起きてくる事、すべておかげであると言う事が分かるです。
 今日は福岡の長さんという方が、伊藤さんのご親戚の方です。今日お礼に出て見えた。多くのお初穂袋に、不合格御礼ち書いてある。息子さんが高校の試験を受けた。所が先生から呼び出しがあった。もう思いもかけない事が起ったち。どう言う事でしょうかち。大体はあの学校に入れる筈であったけれども、とにかく試験をまぁ面接ですかね。試験の時に、合楽で意ただておる御神米を、机の上にあげて受けた。
 そして先生から呼ばれたと。ここはキリスト教の学校だが、ここに入れたらキリスト教の信心をするかと、先生が言われた。所が僕の家はもう家代々、金光様の信心をしておりますからと言うた。どっかあちらは何とか言うな。久原か久原。もうお婆さんの時代から久原教会に参っておられるんだそうです。それでその長さん奥さんだけが、ここへ参ってくる訳なんです。そう言う事からではなかろうか。
 不合格の通知が来たとこう言う訳である。けれども丁度くのいち会から帰った時でしたから、いいえそれはおかげです、有難いですと言うて、まぁいう訳なんです。神様にお取次を頂いて、お願をしてからの事であるから、ね。おかげというのです。私は合楽でご信心なさる方はせめて例えば、自分の思うようにならなかった時に、不合格御礼じゃない不成就御礼が出来るような信心の、そこまでは頂いて貰いたいと思うですね。お願いしとったばってん、おかげにならじゃった。と言った様な事ではなくて、ね。
 お取次を頂いてからの事であるから、右が左になろうが、左が右になろうがそこの時点で、不成就御礼おかげとしての心の状態が、開けてくる所までは、信心を進めて行きたい。それには愈々本当な事から、本当な事を求めて行く。本当な事が分かると言う事にならなければならんのです。本当な事が分かったらそこで、お礼が言えるのです。それこそ月の無情も、雪のいうならば冷たさも敷き松葉の、一つの風情にもなるような素晴らしい句の持つ情感というかね。
 そういう私は心の上に豊かな情感が開けてくるようなおかげを頂きたい。今日は昼の研修の芯になったんですけれども。ここに末永欽也という若い先生がおります。お使いで自動車で何処にか行きよる時に、横から出てきた車がぶっつけた。そのお届けをここでするのに普通から言や、ぶっつけのが悪いのだけれども。僕がそこに丁度通り合わせたという事ももし僕が、そこへ通り合わせなかったら向こうの人も、ぶっつからなくて済んだだろう、と言うのです。金光さんの信心すりゃ馬鹿らしか。
 ほらもうここでほんならお前が悪かつじゃから、修繕はお前が修繕料を取って、良い時でも修繕料も取られん。金光さんの信心すりゃ馬鹿らしかち。所が不思議なんです。そこから頂けれるおかげと言うものは、もう限りないものに繋がるです。また今末永欽也君の受け方頂き方が実際は本当なんです。お前がぶっつかったからお前が悪いんだじゃなくて、自分がそこにちょうど。行ったからあんたにも返って、ご迷惑かけたのという様な気持なんです。これが本当です。
 そこにいうならば円満な解決もつくでしょうし、そういう心の状態に、神様はおかげを下さるお徳を下さる力を下さる。本当の事が分かるとそれがすっきりと言えれる。行われる。信心とは結局本当な事が分かる。それをまたの言葉で言うと、馬鹿と阿呆で道を開けと。言うなら信心の薄い者やら無い者から見ると、馬鹿のように阿呆のように見えるでしょう。けれども本当な事が分かった者としては、いいやあなたが悪いのじゃない、私が悪いと言う事になってくる。
 そういう心の動きこそがです。より愈々本当の事が分かる。真実一路というのはそういう本当な事が、より本当に分かって行くと言う事なのです。それを私ども日常茶飯事のなかに起きてくる、様々な問題の中からです。成程成程と合点の行く実験実証をさせて頂きながら、愈々本当な事への目指しをしなければならんのです。神様にお取次をなさって、お願をしてからはです。神様は無駄な事はなさらんのだけれども、私どもはそこが中々、凡夫で分かりません。
 信心をすれば目に見えるおかげより、目に見えぬおかげが多いぞと仰せられます、目に見えない自分でも分からない所に、大きなおかげの働きというものがあっておる事が、少しずつでも分かって行くと言う事が信心なんです。今まで気が付かなかったけれども、その、気が付かなかった所に、あれも神様のおかげであった、これも神様のおかげであったと、分かるようになれば、本当の信者じゃと仰るように、その本当の信者を目指して行くと言う事なんです。
 だから本当のおかげが頂かれる。本当のおかげというのはあの世にも持って行け、この世にも残しておけれると言う様な、心の状態でありお徳であり力である。その内容をつまびらかにすると、初めに申しましたようにね「雪月の、なさけ重ねて、敷き松葉」という様な事になるのです。月が無情じゃない。雪は冷たいじゃない。その冷たい雪の情景とその煌々と照っておる無情の月の、その光と情景としかもそこに行き届いた、敷き松葉の庭とのこの三者一体になって。
 もうえも言われぬ風情というか情感が、そこに出てくる訳である。私どもの心の上にもね。そういう場合には月のような無情なと思われるような事に、行き当るような事があるかも知れん。あの人は冷たい人だという様な場合に当たるかも分からない。そういう様な事があるかも分からない。けれどもそれもこれも、おかげとして頂けれる心の状態というものがです。私は信心させて頂く者の、まぁ心というか情感というものが、そのように豊かになって行く。心が広くなって行く。
 だからおかげが豊かになって行くおかげが広うなってくる。福岡の吉木先生があるご大祭に、体験されたというその松茸のお知らせ。前の晩のお婆さんのいうならば、もう今夜は疲れとろうから、早う休めと言われるなら良いばってん、反対に朝方までいうなら足腰をもませて頂いた。神様はあくる日のご大祭に、お粗末御無礼がないように、修行を前の晩にさせておいたと仰る。
 だから修行させて頂く時点で、結構な修行させて頂いてという、お礼が言えれるような信心を頂きたい。その位な事ではない。場合にはほんなら今日のいうなら、飛行機事故のようにです。後ろの者が三人も一緒にあ一人の方は、怪我をされたそうですけれども、大した事はないと言う事だそうですが。三人が三人ともおかげを頂いてそれこそ神様の、そういうおかげを、・・・とにかくその前の席に座らなければ成らなかった筈の自分がです。ちょっとした事から後ろの方へ。
 みんなで移られたとこういう。その辺の所の神様の働きというものは、もう本当にまぁ信心の無い者でも、矢張りおかげと思わずにはおれんだろうと、こう思うです。そういう働きを受けさせる事のために、その総代さんが、秋永先生に先日から話したという。僕は合楽にお参りをすると、反対の事にばっかりなる。だから参らんとは言わじゃった。僕には神様の期待があるとじゃろうとこう言うた。
 そういういうなら特に私が頂いた、その天の川に西瓜が浮いておっるという様な所から、思い合わせてみてです。そういう悲惨な事故の前に、神様がこういう修行をさせておいたぞと、まぁ言うておられる様な気が致しました。してみるとお願をしてどう言う事であっても、不成就であっても不成就御礼が言えれる。不合格御礼が出来れる様な、心の状態を愈々、頂いて行かねばならんと言う事になりますね。
   どうぞ。